2009/07/25 00:00


VOL.2

recommuniをご覧の皆様こんにちは、あやぽんごです。福島では桃の最盛期を迎え、農家の方々は、朝早くから摘果や出荷に大忙しです。ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、福島の桃は甘く堅いのが特徴です。果物の一番美味しいところは皮と実の間と言われております。是非、もぎたてをジーンズに擦りつけてうぶ毛を落とし、皮のままかぶりついてみてください。

さて、前回の予告通り、今回からは福島で音楽活動を行っているバンドをピック・アップさせていただきたいと思います。ここに推薦させていただいた以上、一つ一つ愛情と責任をもって紹介させて頂きます。どうかご覧になられた皆様の中から、一人でも多くの方に音源を耳にして頂く機会を作って頂けたら幸いです。


LOCAL REPORT No.1 -福島の天使の歌声-


優しさライセンス(2001-)

Vo.Gt:千葉俊和 / Ba  :秦 広希 / Dr  :阿部光男

1st Album『壁』
2nd Album『こりゃ傑作だ。』
Best Album『世の中の表裏が判り申した。』

2001年、当時大学5年生だった千葉と友人の阿部(Dr)と安部(元Gt)らが、使わなくなった選挙事務所で結成。路上で弾き語りをしていた秦の前を千葉が通りすがり、Baとしての加入を切望し4人となる。(後に千葉は、このときの衝撃を「何故みんな(秦の歌を聴いて)歩みを止めないのか、僕には理解できなかった。脳天が打ち抜かれたようだった」と語っている。)防音もままならない薄い壁の事務所で毎日のように練習していると近隣から苦情が来た。そうして出来た1stAlbum『壁』は、手売りで200枚を即日完売。2ndAlbumには路上で知り合ったチェリストの武田氏を招き録音、こちらも同じく200枚限定発売で即日完売となった。

演奏活動は多岐に渡り、地元ライブ・ハウスでは勿論のこと、千葉の弾き語りは次第に話題を呼び、自治体行政からオファーが来るようになり、福島市主催のイベントや街の広場や歩行者天国での演奏なども行ってきた。また、地元のFMラジオ局では安部とともにパーソナリティを務めていた経験もある。

私が彼らに出会ったのは、私が高校2年生の春であった。その頃、Voの千葉は大学とアルバイトの合間を縫っては、路上での弾き語りを欠かさず行う日々であった。ルメールのシャツと皮パンを履いた彼がホームレスの集まってくる中、マーチンを掻き毟りながら大声で歌っていたのは、椎名林檎の「月に負け犬」。一瞬、私の周りの時空が歪んだのがわかった。

千葉の楽曲を語る上で避けては通れないのが、最愛の母の死とカトリックである。敬虔なカトリック教徒の両親の元に生まれ育った千葉は、幼い頃から日曜のミサに通い、賛美歌を歌っていた。教会独特の匂いと天井の高い御堂による豊満な響きに身を委ね、幼き頃の千葉は旧き良きヨーロッパのメロディを、自然と旋律を体に染み込ませていったのである。

長年クラシックをやっている経験上、千葉の楽曲には日本人には珍しい節回しが用いられていることが見て取れる。教会音楽というのは、言うまでもなくすべての欧米音楽の起源である。賛美歌に手拍子が入ってゴスペルが生まれ、綿花を摘みながら歌ってブルースが生まれ、カントリー、ジャズ、ロックンロールなどへと派生していったのである。千葉はそれを信仰によって自然と習得し、小学生で習ったピアノや中学生で習ったクラシック・ギターと化学反応を起こしながら、高校の時に母に買ってもらったFENDER JAPANのストラトキャスターが武器となり、溢れ出る才能を遺憾なく発揮していったのである。

彼の才能を「ギターを買い与える」ことで具現化してくれた最愛の母は、それから間もなく癌で亡くなった。余命半年の宣告を受けてから、5年も生き永らえた強く優しい母だった。母の死後、当時15歳の千葉は益々ギターに打ち込むようになった。 高校卒業後、最愛の理解者を失った千葉は、母の遺言に沿い建築系の大学に進み、日々を孤独と喪失感に苛まれながら生きていた。姉は家を出、厳格な父は既に退職し高齢になっていた。高校時代からの友人に気を紛らわしてもらいつつ、いよいよ音楽に傾倒していった。

優しさライセンスの代表曲で「ゆりの花」という曲がある。百合というのはクリスチャンにとってはとても特別な花である。ある夜、千葉が真っ暗な部屋の中で、いつものようにギターを抱え寝転んでいると、突如、落雷に撃たれたかのような衝撃が走り、瞬く間に流れ出てきたメロディがあった。千葉はそれらのメロディを一つ一つ慎重にコードに起こし、書き留めていった。

親指に隠れるまでピックを削って 指の先端が失くなるまで掻き毟って
優しい言葉を掛けては見返りを 自分が一番正しいんだと目を瞑って
欲しい物など何も無かった 揺れる百合の花見守っていたかった
大丈夫さ 僕はただ何かを見ていたいだけ
そしていつかきっと思いをやり遂げる

これらの歌詞には、千葉自身の母への思いが綴られていることが読み取れる。ライブの際は、天国に届けと言わんばかりに、普段は温厚で物静かな千葉が泣き叫ぶように熱唱するのである。その様は、背景を知らずとも涙する客が出るほどであった。アーティスト仲間にもこの曲は好評を博し、こっそりライブでコピーされることも屡々あった。

2004年の春に大学を卒業後、千葉は建築の道を棄て、居酒屋の店長となった。それは、これ以上の音楽活動の継続は不可能であることを意味していた。周囲の仲間たちがどんどん上京し、思いをやり遂げようと必至で突き進んでいく中、千葉は日々葛藤していた。音楽を封印しようと、千葉はギターをケースにしまい込んだ。しかし、そう簡単に音楽を遠ざけることはできなかった。激務の中、彼を癒してくれるのはいつも頭の片隅で鳴っていた音楽であった。そうして、およそ5年間のブランクを経て、優しさライセンスは再始動したのである。 

Baの秦も福島を背負って立つべき生まれながらの天才である。秦は自らの音楽で戦うべく、現在は優しさライセンスでの活動は休業中であるが、千葉は「秦くん以外のベースは有り得ない」と首を長くして復帰を待っている。と同時に、誰よりも一ファンとして彼の成功を祈っているのである。

Drの阿部は根っからのドラム・フリークである。このバンドの結成とほぼ同時に始めたドラムだったので、実際メンバーの誰よりも秘術的進化を見せたのも阿部である。彼は、自らが仕事で忙しいにも関わらず、いつも千葉を気遣い「練習やろうよ」と、仕事一色の千葉にメールを送り続けてくれたのである。このメール無しでは、優しさライセンスの再始動は有り得なかっただろう。一番の功労者は、実はDrの阿部ではないかと私は思っている。

2009年6月14日、福島市のAS SOON ASというBARに優しさライセンスはいた。千葉の実家で埃を被っていたVOXのアンプに繋がれたのは、高校時代に母が買ってくれたストラトキャスターだった。エレキ一本で弾き語りをした彼は、ブランクなどもろともせず、実に雄々しい姿だった。冒頭の『確かな旋律』という曲では、妻である私のバイオリンと共に演奏した。

LIVE終了後、音楽的なことでは滅多に妻を褒めない千葉が「僕は今日、一曲目が終わった段階であやちゃんと握手して帰りたかった。感無量。本当にありがとう」と言った。私も涙が溢れた。地元に残り、就職し、家族を養い、それでも辞めない・・・こんな世の中で、こんな形のバンドもいいんじゃないかと思った。(余談ではあるが、この日発売になった優しさライセンスのBestAlbum『世の中の表裏が判り申した。』には、彼が店長を務める「居食厨房ちゃりちゃり」の割引券が同封されていたそうだ。居酒屋も音楽も益々発展していくことを、誰よりも願っている)

最後に、いつも煮え切らない千葉の背中をそっと後押ししてくれるmonokuro磯谷直史氏、遠く離れた地で良い楽曲を作ることで触発してくれるsominica橋本裕弥氏、初めて会った日から心を奪っていった永遠のヒーローTHE FAN安斎文則氏、リスタートの切っ掛けを提供してくださったAS SOON AS安斎省吾氏、そして優しさライセンスを応援してくださるすべての皆さんに、心から謝辞を述べたい。

PROFILE

千葉あやa.k.a あやぽんご。9歳からバイオリンを始める。様々なオーケストラやバンドで演奏活動を努める傍ら、地元のオーケストラで子供たちへの指導も行っている。バロックからテクノまで、頼まれたら如何なる演奏も断らない。オーケストラ歴15年、社会人歴5年、バンド歴5年、主婦歴4年、大学生歴3年、人間歴23年の女子。好きな言葉は『民度高い』。『普通に暮らすとロハスになってしまう町』福島で、元気に活動中。趣味は釣りと山菜採り。

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