2009/05/17 00:00


VOL.3

山形から船山です。そして今度もまたもやまさかの番外編です。色々考えたんですが自分という人間をちゃんと知ってもらったほうが、僕を知らない人もつい先日出会ったばかりの人も結構知ってるって人にも、僕という人間にリアリティーがでると思うからもうちょい書きます。オレはアズム館が何なのか気になるんだって人は今回もすみません。でもバックグラウンドがはっきりわかってからって色々な意味で違ってくると思うんです。なので書きますね。


中学を卒業して僕は地元の高校に入学した。入学してすぐ僕は拒食症になった。お弁当の時間は僕にとって地獄だったし、お昼明けの授業の時僕はいつもトイレにいた。入学してから1週間程で5キロ痩せた。体重はみるみる落ちて遂に30キロ代に突入した。生憎骨と皮だけになる前に回復したので、その後は問題なく高校1年生を続けた。2年生になると文系理系が分けられ、僕は文系を選択した。解き方は無数にあっても答えが一つという数学は僕にはどうも向かなかった。僕のクラスメイトの中には元CLISMSのギターの樋口くんがいた。この頃の彼の口癖は「まじかぁ〜」だった。もしかしたら一回しか言った事がないかもしれない。でも僕の中で樋口君といえば「まじかぁ〜」だった。クラスでは罰ゲームが流行ってた。女の子のブラジャーのホックをとるとか、担任の先生に何か言うみたいなどうでもいいことだった。進学校だったからか、クラス・メイトの遊びはいつもどこか保守的だった。違うクラスから僕と同じように居心地悪く思った何人かが自然に集まり少しの集団になった。そこにアベセージはいた。


皆が大学進学を目指し、やいのやいのと勉強をしてる頃僕らは小学校のプールで全裸になって宴会をした。この頃の僕らのテーマ・ソングはAIRの「TODAY」。何故かこの曲だけみんな知ってた。プールそばのジャングルジム、ジャングルジムの上にはちょっと飛び出た管制塔のような遊具。僕と友達はその管制塔の中で「TODAY」を歌った。管制塔の下で宴会してた友達も「TODAY」を歌った。気持ちよく歌ってたその時、土のグラウンドを走る1台の車。カー・セックスじゃないかってちょっとウキウキした。静かに友達と目を凝らした。管制塔の中から僕の友達が叫んだ。「ツートン・カラーだ。」


下で宴会してた友達はもういない。叫んだ友達は2階建ての家の屋根ぐらいの高さの管制塔から飛び降り、僕も後を追って飛び降りた。未来少年コナンのあの名シーンのように体中がビーンってなんのかと思ったけど、足が痛いだけでビーンとはなんなかった。飛び降りた瞬間懐中電灯に照らされた。照らされた方向を見たらあいつら5人で来やがった。必死で逃げた。もう僕の目の前に友達はいない。皆が何処に行ったかもわからないけど2度と振り返らずに必死に逃げた。川の中を走った。家と家の間、ほんの少しの隙間に逃げ込んだりした。先輩ありがとう。あなた達のおかげで無事に走りぬきました。無事に近くの友達の家に到着した。「アナーキー・イン・ザ・ユーケー」で頭を振りすぎゲロを吐いた友達が青ざめた顔で待ってた。


「トレイン・スポッティング」や「さらば青春の光」に憧れて家の軒下でホコリを被ったスクーターをガソリンスタンドまで引きずってガソリンを入れてもらった。勿論ベスパなんて買える訳が無い。調子に乗って3人で乗ったら3秒でパンクした。あれはおじいちゃんのスクーターだったけど、未だに3人乗りしてパンクしたどころか動かしたことすら言ってない。ということで僕はモッズになれず、FRUITって雑誌に少なからず影響を受けてスカートを身につけ、髪の毛はアシンメトリにした。この頃一番観た映画は岩井俊二監督の「PiCNiC」だ。オレが死んだら世界は終わるんだってこの時は思ってた。オレが死ななければ世界は続くし、死んだら終わりだ。なんて簡単なんだって思った。

高校でも僕はバンドを続けた。スタジオなんて立派なものは田舎にはなかったから、いつも農機具なんかが置いてある小屋で練習した。隣の家まで距離もあったし騒音で怒られるなんて事も無かった。マイクはおばあちゃんのカラオケ・マイク。アンプとスピーカーはコンポを使って練習した。文化祭に出たり川西町って所にあるライブハウスだか何だかわからない所を借りてライブしたりした。チケットは自分等でコピーして作った。川西の駅は長井駅から電車で30分弱。しかも乗り換え有り。そしてその駅からライブ・ハウスらしき建物まで徒歩で30分以上ある。しかもあの日は雨が降ってた。オープン前外を見たら、遠くの方から傘をさした友達が列を作って歩いてた。凄く興奮した。たぶん30人ぐらいだったと思う。今でもはっきり思い出せる。


僕はセージとザ・グレープってバンドを組んでブルー・ハーツを演奏した。僕はこの時ドラムでセージはギターだった。ボーカルの友達マッツは、『We are from Nagai!!』 って叫んだ。違うバンドの友達は、「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を歌いながら『一緒になろうぜ』って叫んだ。今思い出しても最高すぎる山形の歴代名シーンだ。もっとたくさん色々あったけど平たく言えば、平たく言えば僕の高校生活はこんなことばっかりだった。



そしてまさにその頃、船山家は荒れてた。荒れに荒れてた。というか僕が物心ついてからずっと荒れてたのかもしれない。それでもその荒れは僕が高校3年生の時マジで最悪だった。毎晩父親の怒鳴り声を聞いた。機嫌が悪い朝は猫が蹴られて宙を舞った。僕は父親に会いたくなかった。ある日いつものように父親の怒鳴り声が響いた。いつもならそこで終わるのにその夜は全然違った。18年間耐え続けた僕の母親が初めて逆らった。悲痛な叫びが家中に響いた。僕はベッドの下から備え付けのバッドを手にとった。18年間耐え続けた僕の怒りも爆発した。親父は家を飛び出し僕は親父を追いかけようとした。母親に腕を掴まれて、それじゃお父さんと一緒だからやめなさいって言われた。その時外にある母親の車から「ガン、ガン、ガン」って殴ってるような音がした。僕は血が出るぐらい拳を強く握った。もし母親に止められなかったら、僕は父親をたぶん殴ってたと思う。もしそうなら恐らく僕は今これを書いてない。僕の母親が最高で本当に最高だ。

母親と僕と弟は家を出た。

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